2025年10月11日(土)~13日(月)
10月の3連休を活かし、三重県→愛知県→岐阜県の近県
巡りをしました。近県巡りで使った費用は約4万円程、
半分は宿泊代(2泊、朝食込み)、残りは飲食費、交通
費、訪問先の入場料です。
宅配食の毎日なので。この機会に土地の食べ物やなご
やめしに挑戦してみたいとおもいます。
2025年10月11日
1日目は、三重県桑名市にある山林王諸戸家の別荘園(
六華苑)と土地名物はまぐり料理の賞味です。
先ず近鉄名古屋駅の窓口で桑名に早く着く電車を聴き、
急行で桑名に着き駅前から六華苑に行くKバスに乗り込
みました。Kバスの乗客は早朝もあってか私1人でした。
さて諸戸家は有力政治家と縁を結び、政商として日本一
の山林王として、明治期に山形県の本間家を抜いて日本
一の大地主としての地歩を築きました。六華苑は、諸戸
二代目当主清六の邸宅を収め洋館と和館よりなります。

邸宅は重要文化財です。洋館は客の接遇等に和館は専ら
家人の起居に使われます。洋館は、東京上野の岩崎邸な
どお雇い外国人、コンドル設計になるものです。洋館の
塔屋は客間で4階から揖斐川河口が望めるとのことで。
水洗トイレや電話室があります。
和館には2組の一の間と次の間があり、部屋に接する内
廊下は畳敷き、北側外廊下は板敷です。部屋には押し入
れや箪笥がなく、使用人が外廊下を伝って和館の奥にあ
る一番蔵から寝具や着物類等を出し入れするようです。
邸宅南側に芝生広場、さらに南奥に池泉式回遊庭園が展
開しています。また離れ屋は茶亭としても使われます。
見学も一通りおわったので六華苑を出て揖斐川沿いを歩
きました。ほどなくして七里の渡し場から東海道に繋が
る鳥居が現れ、東海道に沿って明治の初めに創業のはま
ぐり料理の名店、「歌行灯」に着きました。ここで大焼
きはまぐり御膳とお銚子を注文しました。

今やはまぐりは高級食材で、焼きはまぐりのほか佃煮が
若干の他は他の食材でした。料理としては全体に美味し
くいただけました。折しも台風23号の影響で空模様も怪
しくなったので、酔い覚ましも兼ね桑名駅に直行し帰名
することにしました。
今日泊まるホテルは「安心お宿Woman&Man名古屋栄店」
でカプ セルホテル乍ら交通の便も好いことで結構いいお値段です。 客層は日本人若手層とインバウンドが多かったです。案内された客室は、ベッドと足元に大型テレビのある繭 のような部屋で、椅子生活に馴れた身には膝行するのに 一苦労です。貴重品はロッカールームに預ける必要があ
ります。
ひと風呂浴びて。栄地下街の居酒屋、酒津屋さんで、名
古屋めしの赤味噌豚串カツ定食を摂りました。夕食後い
つも見ているテレビ番組をみて午後10時前に床に就き
ました。
2025年10月12日
2日目は、愛知県内の東海道筋にある赤坂宿~御油宿の
探訪です。
朝6時前に起きて、キーマカレーと野菜カレーをかけた朝
食を摂り朝シャワーを浴びた後、ホテルをチェックアウ
トしました。名鉄名古屋駅の窓口で名電赤坂駅に早く着
く電車を聴き、名鉄急行で美合までゆきそこから伊奈行
普通で名電赤坂に着きました。途中の安城辺りは「日本
のデンマーク」のように広い田畑が望めました。
名電赤坂駅を降り徒歩で東海道筋に右に折れて、往時の
旅籠「大橋屋」さんに着きました。因みに大橋屋さんは
平成27年まで実際に営業をしていたそうです。

1階に旅籠のご主人が居住する部屋と台所、2階の通りに
面した8~10畳の3部屋が客室で、2階裏側に女中さん
たちの部屋があります。女中さんの中には旅人の接客婦を
させられ、逃げ出したり近くの池に身投げをする人も出た
そうです。歌川広重の版画には、宿の裏手にある蘇鉄と燈
籠の画がありますが、それらを模したものを今も設えてい
ます。
考えてみると通りに面した3部屋だけで営業が成り立つの
かという疑問があります。事実大正時代には今の建物の裏
手に客室を建て増しして、営業拡大をしたそうです。
大橋屋さんを出てさらに右に街道を上ると杉森八幡宮へ出
ます。今日は八幡宮の例大祭の日で神輿行列が出ます。
八幡宮では余興として大名行列を出すそうです。大名行列
を担う若衆が少ないようです。地元の町内会長さんと青年
団幹部の話では、実勢は30人ほどで、あと半分のメンバー
は他所にでているとのこと。その反面2週間後の子供歌舞
伎の方は、堂々たる小屋掛けを設えて盛況のようです。
そうこうしているうちに午後1時過ぎ、大名行列を前触れ
とする神輿行列が出立しました。近辺を一回りして八幡宮
に戻ってくるそうです。

行列を見送った後東海道筋へ出て御油宿へと下って行きま
した。途中うなぎ屋さんがあったので立ち寄り、ウナギ半
身の田楽をライス付きで注文しました。田楽はウナギの半
身を八丁味噌の甘だれにゴマをまぶして焼き上げた店主発
案の料理で、香ばしくいただけました。
やがて御油宿が近づくにつれ両側に松並木の街道筋が現れ
ました。終戦間近の石油欠乏時に街道の松並木に対しても
松ヤニ油の供出させた軍の命令に抗い松並木を守った、近
隣住民の話を大橋屋さんのガイドさんから聴きました。

名電御油駅から帰名の途に就きました。2日目の宿は、「
東横イン名駅南」です。「komehyou」前のホテル送迎バス
をタッチの差で逃したので、徒歩で行くことにしました。
名古屋高速江川線沿いと名駅から徒歩15分と離れています
がその分割安です。宿泊客はファミリー層も多かったです
。
流石シティホテルだけあって客室のセキュリティは万全で
浴室もあります。荷を置いて早速送迎バスで、名駅地下の
エスカにある「山本屋」本店に、なごやめしの味噌煮込み
うどん食べに行きました。相変わらず長い客待ちのすえに
賞味することができました。「komehyou」の前に戻るとま
たまた長い送迎バスの待ち行列です。
ホテル客室に帰り着き入浴の後、ズボンや上着をハンガー
にかけしわ伸ばしをすると同時に、明日の下着一式を机上
に用意し、ホテル備え付けのパジャマに着替え、床に就き
ました。旅の疲れもあり寝つきはよかったです。
2025年10月13日
最後の3日目は、岐阜県恵那市の日本大正村を巡り恵那山
を望みました。送迎バスでJR名古屋駅に向かいました。窓
口がなかったので取り敢えず恵那までの乗車券を券売機で
求め8番ホームに向かい、駅員さんに恵那に早く着く列車
を聴き、中津川行き快速で恵那に向かいました。
途中高蔵寺までは名古屋近郊、多治見までは土岐川渓谷を
長いトンネルで抜け、恵那まではひらけた畑地を走りまし
た。恵那に着くと明智鉄道の電車が待ち受けており、それ
に飛び乗り日本大正村のある終点の明智に向かいました。
日本大正村は、大正期を過ごした建物が明智の町に散在し
それらを訪ね歩く形をとります。駅から鹿鳴館風に建てら
れた案内所に立ち寄って共通券を求め、これで村内の建物
を訪ねます。因みに案内所は、1階が土産物店、2階がレ
ストランです。
まず大正路地を抜け大正村役場を訪ねました。

大正村役場は、昭和32年まで旧明智町(現恵那市の一部)
の町役場として昭和32年まで使われました。国の登録有形
文化財です。1階には町長さんなど町幹部が居て、陳情等
で訪れる町民との会議室等、2階は未公開ですが町議場が
あります。
1階には寄付者の名簿が掲示され遠く関東地方からのもの
もあります。造営資金など物入りの時に、今ならクラウド
・ファンディングや形を変えたふるさと納税の形で寄せら
れたものでしょう。裏手の1階平屋は町民むけのサービス
棟でしょうか。
つぎに坂を上って旧三宅家を訪ねました。ここは旗本に仕
えたお武家さんが帰農して300年ほど前に建てた民家です。
正面のオオドグチから入ると、トオリニワと上手に板敷の
ダイドコロがあり、二つのイロリを抱えた日常生活の中心
でした。左手には客も迎えるザシキと壁を隔ててオクの仏
間、ネマ、シモベヤ(便所)があります。ガイドの方の話
では、かって冬は-13~-14℃にもなり寒天が特産とのことで
す。今寒天は希少で観光列車で時折提供されるとのこと。
続いて隣の大正ロマン館にゆきました。大正モダンをイメ
ージして平成6年に建てられました。館内には初代村長の
高峰秀子さんや議長の横綱栃錦の遺品の他、当地出身の画
家、山本芳翠さんの画がありました。さらに当時のアコー
ディオンやオルゴールも展示されていました。玄関脇には
昭和初期のドイツ車があり、厳めしいが内外装は今の車と
大差ない感じです。
館の外に出ると眼下に明智の町並みが広がっていました。
町並みを前に右手を上ると、秀吉に重用された明智光秀の
居城跡に至ります。正午の時報が聞こえたので、案内所2
階のレストランに下りて、エビ天蕎麦の感触を楽しみまし
た。
昼食後大正村資料館を訪れました。ここは銀行の繭蔵で金
の代わりに繭を預かっていました。4階建ての蔵で手動エレ
ベータで繭を出し入れしていました。見学順路として右手
1階はおもちゃのこけし、2階は当時の教科書、3階はレ
コードの展示がありました。左手は当時の新聞が置いてあ
りました。大正の初めと終わりには明治天皇と大正天皇の
崩御記事です。目をひいたのは大正初期と末期の紙面構成
です。初期は瓦版の伝統を継ぎ読み物風でしたが、末期に
は今と変わらぬ囲み記事の体裁をとっていました。
最後に寄ったのは喫茶天久です。大正期京都にあった喫茶
を移築したもので、作家の水上勉も通ったそうです。
ここでコーヒーを注文し、つきだしにチョコ2粒が出まし
た。カウンターの机や衝立に時代を感じました。その後2
階にあった明智の町角風景のスケッチを見て、帰途に就き
ました。
恵那市で忘れてならぬのは恵那山の存在です。先だった妻
恵子は疎開先の恵那市で生まれ、恵那山の1字「恵」をと
って名づけられました。恵那山は亡き妻「恵子の山」です
。帰りの快速の発車間際に恵那駅で撮りました。

雲がかかっている背後の青い平べったい山が恵那山です。
帰名後最後のなごやめし「手羽先定食」に挑戦すべく、近
所の「風来坊本山店」に向かいました。店は月曜定休との
ことで残念の極みです。今日は祝日なのに。仕方なく近く
の「Coco1番屋本山店」でカキフライ入りのカレーを
食べました。
旅の経験談29(近県めぐり)はこれで終わりです。続編
も投稿したいとおもいます。
最後になりますが、(株)Vector様のサイトに「旅先情報
データベース」を紹介していただいています。Googleほか
のサイトに「旅先情報」のキーワードで検索いただくと、
紹介のサイトが現れます。このサイトから上記データベー
スをダウンロードできますので、あわせてご活用いただけ
たらと存じます。以上